投資家という生き方を選んだ理由(強吉の過去と今)

強吉がなぜ投資家という生き方を選んだのか?についてお話しします。

 

2004年〜夢を抱いて上京


九州の服飾専門学校を卒業後、ファッションスタイリストを目指し上京しました。
昔から目立ちたがり屋が突き抜けてしまい、人と同じというコトやモノが退屈でとにかくみんなとは違う生き方をしたい。
「普通」が嫌いでみんなと同じ大学進学はせず、ファッションという生き方を選びその中でもファッションスタイリストに憧れて東京の地に降りたったのを覚えています。

田舎から出て来たあるあるで、「東京の洗礼を受ける」という事がありませんか?
実際にはそんなものは無いのですが、警戒心が強く思い込みがあるために、ちょっとした事でも洗礼だと感じてしまうアレです。

当時、強吉は20歳の若造。初めての東京という地。
御多分に洩れず、東京の洗礼を受けました。

そのときは渋谷で地下鉄の田園都市線に乗り、最初の居住地である三軒茶屋に向かおうとしていたのですが・・・複雑な東京の路線図に戸惑い、駅員さんにたずねました。

強吉「田園・・・なんだっけな。なんかそういう名前の電車あります?」

駅員「田園調布ならこの電車に乗れば着きます。」

そうして案内されたのが、東横線でした。

東京在住の方はすぐにこのボタンの掛け違いに気づくでしょう。

私が知りたかったのは三軒茶屋駅に行く「田園都市線」。
一方で駅員さんが教えてくれたのは田園調布駅に行く「東横線」。

結果、私は何も疑うことなく東横線に乗り込み。田園調布駅に導かれたのでした。

きっとこうした経験の積み重ねが心の強さを作っていくのでしょう。
しかし東京に慣れていない人間にとっては、これは紛れもなく「東京の洗礼」でした。

余談ですが、なぜ最初の居住地を三軒茶屋にしたかというと、専門時代の友人がすでにそこに住んでいてルームシェアをさせてもらうためでした。
とにかくお金はない。東京は怖い。
こんな東京生活のスタートでした。

上京後すぐに「東京でスタイリストになってメチャクチャ稼いで人生を謳歌してやる!」と意気込んでスタイリストスクールに入学しました。

スタイリストスクールでは、毎月自分でテーマを決めて作品作りを行います。
モデルを雇って、衣装を用意して、かっこいい作品を撮り、プレゼンを講師に向けて行うのです。
講師は現役のスタイリストの方々なので、うまくいけばアシスタントとして雇ってもらえる仕組みでした。
そのため、こだわりのある作品を作ろうとすると特殊な衣装を用意したり、おもしろいモデルを探し出してギャラを払ったりなど、工夫をするのですがお金がすごくかかってしまいます。

上京するだけでも金銭的に精一杯だった強吉は、3ヶ月しかスクールに通えず休学してしまいました。

まだ若いんだから、親に頼ってもいいのでは?と思いますよね。
しかしながら、父子家庭の生活保護を受けていた貧乏家庭だったので親にも頼れず、休学を選び東京で食いつなぐためにバイトを探しました。

その後、居酒屋でバイトをしたのですがスタイリストを目指す環境から離れ、バイト漬けの毎日を過ごしていると情熱が薄れていき気が付けば、3年もの月日が流れていました。

地元のみんなに「あいつは何かやってのけるんじゃないか」と期待されていたのに、スタイリストのスタートラインに立つ前に挫折し、「俺って何しに東京来たのかな・・・」と自問自答の毎日。
上京した時に思い描いた、理想とは違う不甲斐ないフリーターという現実に、打ちひしがれていました。

2009年〜貯めた100万円を失う


スタイリストという目標を失い、バイトばかりの日々を過ごしていた強吉にとって唯一の楽しみが「映画」でした。

特にアメリカ映画のSF大作系が好きで、どんどん映画の世界に引き込まれていきました。
非現実的な描写が多いので、日常を忘れて没頭できることが夢中にさせる要因となり、バイトの休日前夜にTSUTAYAで2,3本借りてゆっくりみて休日を過ごしていました。

そんなある日、「ハリウッドで俳優を目指してみよう」とふと思い立ったのです。

俳優になろうと考えたのには理由があり、当時読んでいた山崎拓巳さんの「やる気のスイッチ!」という本に、夢中になって時間を忘れてしまう事を仕事にすればよいと書かれているのを見たことがきっかけでした。

そこで、自分にとって夢中になれる時間が映画だったので、映画の世界で働くことは自分の新たな夢になるなと考え、その中でも輝いてみえる俳優という職業を目指そうと思いました。

思い立ったが吉日という言葉どおり、その日のうちにタウンワークを開きコンビニのオープニングスタッフに応募し、居酒屋との掛け持ちで半年働き100万円を貯めました。
とにかく、スタイリストの夢に打ち砕かれた後だったので、夢中になれる目指すべき場所が見つかって毎日が楽しかったです。

朝7時から昼13時までコンビニで働いて、そのあと14時から深夜1時まで居酒屋で働く。
それを週6日×6ヶ月やって貯めた100万円。
人生において自分の預金口座に100万円入っていることが嬉しくて嬉しくて、スターマリオのように無敵になった気分でした。

「俺はこの100万円でアメリカに留学するんだ!」

「まず英語を話せるようになってから、俳優の勉強ができる大学に編入してハリウッドで日本人俳優になってみんなを驚かせてやる」

忘れかけていた夢を追いかける情熱が蘇ってきて、身体中からあふれていました。
そして、留学斡旋会社に申し込み、あとは留学するだけとなった矢先・・・
自宅のマンションのポストに一通の手紙が入っていました。
そこには債権者集会の案内と書かれており、差出人は裁判所からの手紙でした。
封を開けるまでは、なんのことだか分からず中身をみて数秒後に膝から崩れ落ちました。

留学斡旋会社が倒産。

やっとの思いで取り戻しかけた情熱、半年間本気で貯めた100万円、その全てを奪われたのです。

「せっかく目標ができて、自分の生きる道が見えていたのに。」

「なんでこのタイミングなんだよ・・俺の大切な100万円が・・・」

ショックで1週間寝込みました。
布団の中で携帯を使いネットで調べた所、その会社は給料未払いであったり倒産寸前だった情報が出回っており、もっと早く下調べしていればと悔やみ、追加で3日寝込みました。
夢とお金を失い、絶望だけが残りました。

2011年〜目的を失ったフリーター生活


スタイリスト、ハリウッド俳優という夢と希望を失った後は抜け殻のように過ごしました。
地元の友達は子供も生まれていたり、大学を卒業して優良企業に就職していたり。
みんなの100歩先を行くつもりだったのにどんどん置いていかれる気がして劣等感が日に日に強くなっていました。

「こんなはずじゃなかったのになぁ」

絵に描いたような挫折感を抱えながらも、毎日を生きなければいけない。
お金を稼がなければいけない。
そのため、仕事を転々としました。

正社員になる事は考えず、何かチャンスはないかと一発逆転の事ばかり考えて空回りする日々。
具体的には以下のような仕事をしました。

パチンコ屋(アルバイト・週5日勤務・時給1500円・8ヶ月間)
都内大手ホールでの勤務。欲望が渦巻く場所、負けすぎて店員に文句を言ってくるお客さんも多かった。
パチンコ屋と言えば遠隔操作を疑ってしまうがそんなものはなく、インカムではホールを巡回するための指示などが飛び交うだけ。ドル箱交換はやはり力仕事なので運ぶ時は腰ではなく足の屈伸運動で持つことを覚えた。

牛乳の営業(個人委託業務・週5日勤務・完全歩合(一件成約につき3000円〜5000円)・1ヶ月)
営業請負会社での個人委託業務。大手牛乳メーカーによる個人宅への定期配達を契約する飛び込み営業。
毎日、ひたすら100軒近くの家をまわっていたが全く契約が取れなかったので給料も0。
営業は罵声を浴びせられることもあり、鋼のメンタルが必要だと痛感した。

ブラック不動産の電話営業(契約社員・週5日勤務・月給30万円プラス歩合・1日のみ)
出勤初日から、投資用不動産の売り込みと買取を電話で営業。なぜか竹刀を持った上司が横に座り契約が取れないとその竹刀で机を思いっきり叩いてくる。
先輩はおばあさん相手にマンションを売るように半分脅しでまくしたてていて、無理だと思い1日で辞めた。
辞める電話をした時も、「この業界で一生働けなくさせてやる」と言われヤ○ザかと思った。

大手運送会社の配送センター仕分け業務(アルバイト・週3日勤務・時給1000円・3週間)
働いていた時期が冬で、配送センターは外からのトラック搬入があるため常に扉が開いていて極寒。
宅配物がレールで流れてくるので、それを地域ごとの台車にうつす作業。
現場リーダーの若い中国人の男性に、「オマエ、オソイヨ!モットハヤクヤレ!」と怒られたので、リーダーの仕事ぶりを見ると早いがかなり雑だった。ダンボールをぶん投げるし、注意もカタコトすぎて聞き取れず分からなかった。

ネットワークビジネス(個人事業主・決まった勤務日はない・完全歩合制・2年)
いろんな仕事をする合間に自分のペースで取り組めると紹介されて始めた。
ネットワークビジネスは世間の評判も悪く、知り合いや友達をビジネスに巻き込むので毛嫌いされることが多かった。会社自体の製品や理念は良かったので続けてみたが全然収益にできずフェードアウト。

軽トラに乗りながら廃品回収(個人事業主・週6日勤務・完全歩合制・6ヶ月)
街中でたまに走っている「こちらは〜。廃品回収車です〜。ご不要になった・・・」で有名な仕事。
要はゴミ処理代行なのだが、本来粗大ゴミとして格安で処分できるものをいかに説得してボッタクリ価格で引き取ることができるかがポイント。稼いでいる人は月100万ぐらい稼いでいたが、自分は全然ダメだった。
近隣住民からスピーカーの音がうるさいと言われ、キレたおっさんが追いかけて来ることもあった。

デパートの什器搬入(アルバイト・週2日勤務・1現場5000円・6ヶ月)
都内大手デパートでの催事用什器を搬入・設置する仕事。什器にはキャスターがついている為そこまで力仕事ではなく比較的に楽な仕事だった。
現場ではベテランのおっさん達がマウントの取り合いをしていかに自分の仕事が早いかを自慢しあっていた。

スカウト(個人事業主・自由勤務・完全歩合制・2日)
都内の繁華街にてキャバクラや風俗などで働く女の子をスカウトする業務。
とにかくひたすらに女の子に声をかけていくのだが9割以上は無視される。
もし働くとなった時は、その女の子がお店で売り上げた金額の何割かをもらえるので、その子がすぐに辞めないように心のケアをするのも仕事。
人見知りだったため、声をかけることが苦痛すぎて2日で辞めた。

大手保険会社のコールセンター(アルバイト・週5日勤務・時給1100円・6ヶ月)
保険に関する問い合わせを受けるインバウンド業務。
ほとんどが、普通の問い合わせだったがクレーマーもいた。その場合、上長に変わってもらって対応する。
その職場では、話し言葉を徹底的に指導された。
名前を聞く際に「上のお名前を教えていただけますでしょうか?」と聞きがちだが、名前には上も下もないと教えられたのが印象的だった。

大手通信キャリア本社にて派遣事務(派遣社員・週5日勤務・時給1200円・6ヶ月)
法人向けのキャリア回線営業の工事プランを専用のフォーマットにまとめる業務。
業務自体はなんの問題もなかったが、管理者SVが次々と変わっていったところに闇を感じた。
食堂がめちゃくちゃ充実していて、毎日ランチタイムが楽しみでしょうがなかった。
キャバクラのボーイと掛け持ちしていたので、業務中に居眠りしてしまい上長に何度も注意された。

キャバクラのボーイ(アルバイト・週5日勤務・時給1500円・3年)
女の子がバニーの格好で接客するキャバクラでのボーイ。
働き始めは目のやりばに困ったが、すぐに慣れてしまい何も感じなくなってしまった。
キャバクラはサラリーマンの憩いの場であり、普段ストレスを抱えながら働いていそうな人もみんな笑顔で楽しそうだった。職場の雰囲気も良く長く働けた。


自分ではあえて正社員を選んでなかったつもりだったが、おそらく企業に属してまっとうに働くことから逃げていただけかもしれない。

男なら一発稼いでやるという気持ちがあるのだが、経歴も中途半端、スキルも特になし、そうなると時給1000円台の仕事をするのがやっと。
これでは、月給30万が頭打ちとなり一発稼ぐなんて出来ない。

稼げない仕事もあったので消費者金融で借金したり、理想とは違う現実からの虚無感からストレス発散で散財したので貯金もなく自信もなくし、将来の不安だけが大きくなる一方でした。

2015年〜異次元の世界に飛び込む


職を転々とした後、ふとしたきっかけで銀座の超高級会員制サロンで働く事に。
知人の紹介でサロンのオーナーと出会い、水商売の経験を活かして働いてみては?と声をかけてもらいました。

内装に何億円もかけて豪華絢爛にしたお店にはそれこそ超一流の人達が集まってきます。
芸能人から、社長、会長、ビジネスオーナー、投資家など桁違いの遊びをする人達を毎日見てきました。

1本100万円する幻の焼酎を何食わぬ顔で注文したり、1本300万円の超高級シャンパンを10本使ってのシャンパンタワーをしたり、一般のサラリーマンの年収を一晩で使う方ばかり。

貧乏育ちで、フリーター経験しかない自分にとって、異次元で生きている人達と出会える職場は刺激的でした。

世の中には圧倒的に稼いでいる人達がいて、多くの人がその人の利益のために働いているんだなと実感。

時給や月給という生き方では稼ぐのに限界がある。

そう考えるようになって、自分も稼いでやるという野心に火がついていきました。
ただ、どうすれば稼げるのかが思い浮かばず、本当に自分もあのステージにいけるのか?むしろそんな事を考えるのは間違ってるのでは?と悶々と考えながら働いていました。

「そのとき、自分はもう33歳になっていました。
20以上の職を転々とし、何も身についていない33歳。
自信を持って自分をアピールできるものは何も持っていない33歳。
でも、悶々とする中で、バケモノ級に稼いでいる人達を身近に感じ、かすかな希望の光が見え始めていた33歳でした。」

2019年〜きっかけとの出会い


稼ぐ事へのアンテナを張っていたある日、付き合っていた彼女に友人の旦那さんを紹介してもらいました。
その人は、幅広くビジネスを展開されていてアメリカやカナダ、フランスなどのヨーロッパ、アジアと世界中を回りながら悠々自適に暮らしていました。

フリーター経験しかない自分にとって、職場という縛りがなく世界中を周りながらも、お金を稼げるライフスタイルは目からうろこでした。

会社に頼らず、稼ぐ能力を身につける事は自信にも繋がり生活を豊かにする。
物足りない日々を過ごしていた日々に答えがでたような気持ちでした。

その方の紹介で、ある投資家の方に出会いました。
その方は、ソニーでのエリートサラリーマンの道を捨て投資家として一念発起し成功するも失敗も経験し一文無しに。
そこからタクシー運転手をやりながら、投資の手法を確立していき完全復活を果たし、今では自由な生活を手に入れ過ごしていました。

その方が言うには、「ソニーで働いている時に会社の看板があったからこそ生きてこれた。
会社の看板がなくなったとたんに力を失ってしまう」との事。

超大手で働いていた人が、それほどの危機感を持ってしまうのであれば、なんの力もないフリーターの自分はもっとやばい状況になってしまうと不安を覚えました。

その方から、自分で稼ぐ力がなければこの先、生きていくのは厳しいと教わりました。
そしてなんのスキルもない自分が、時給や月給ではなく大きく稼ぎ、なおかつこの先の不安を解消する方法として投資家を目指すのは一つの答えなのではないかと考えました。

ちょうど、高級サロンで働いた時に成功している多くの投資家を見てきました。
その方達と同じように、お金を稼いで自分の好きな事を、好きな時に、好きなだけやれるような投資家になりたいと。

例えば、自分は服飾の専門学校に通っていたこともあり、服が好きです。
服なんかは特にブランドかそうでないかで金額の差が大きい。
本当にいい服はやはり高いですが、それを値札を気にせずに好きなだけ買いたい。

小学生の頃、駄菓子屋でお店ごと買い占めたいと30円のチョコを握りしめながら思ったことがありますが、いくつになってもお金を気にせずに生活するのは、憧れるものだと考えます。

それだけではもちろん無いです。

投資家で成功するということは、自分の力で稼ぐ方法の一つだとも思います。
市場にはPCやスマホでアクセスできるので場所を選ばないですし、体力的に働けなくなっても問題ないし、人間関係のしがらみも無い。

パチンコ屋で働いていた時に、自転車での交通事故を起こし1ヶ月自宅療養した経験がありました。
完全に自分の不注意で、音楽をイヤホンで聞いていて赤信号に気づかず交差点に侵入し、車にはねられました。
その時は腰を強く打ってしまったので動けず、家から出られませんでした。
もちろん、その1ヶ月は無収入なので次の月は生活がかなりしんどかったです。
※事故では、自転車に乗っていたので車両扱いになり、完全に自分が悪かったので相手の保険等もおりず、貯金も無かった為

そういった、不慮の事故があって自宅から動けなくても、PCさえ手元にあれば自分の力でお金を稼ぐ事ができます。
ましてや、年齢を重ねていくと働ける職種や稼ぎ方も限られてしまうし、どこかに属したままだとその企業が潰れたら自分も仕事を失ってしまいます。

それに社会的に評価される技術やスキルは自分には無いですが、投資の世界では最先端の技術やスキルを持った会社に投資をすることができます。

決して楽して稼げるなどという甘い世界ではないというのは覚悟していますが、「年収1億円以上の職業」として、トレーダーが50%以上を占めている事実を国税庁も発表しているのです。

今この時点で自分とは圧倒的な社会格差がある超一流企業の役員クラスの人に、年収が追いつく可能性があるなんて本当に夢のような世界だと思います。
その可能性を目の前にしたら、やらない選択肢はなくなりました。あとは突き進むだけ。


これが、「なぜ投資家という生き方を選んだのか?」の答えなのです。

 

【2021年3月1日追記】


上記までの記事は、私が投資家という生き方を選んだ、2019年12月末に書いたものでした。
あれから1年2ヶ月が経ち、私の選んだ生き方は間違いなかったと確信しています

2020年はコロナウイルスの脅威が世界を震撼させ、日本においてもほとんどの常識が覆される事態となりました。
働き方が大幅に見直されテレワークという言葉が定着、企業は都心のオフィスを解約し生き残る企業と衰退する企業の二極化が顕著になりました。

企業に属すことが安定という常識はもはや崩れ、どのような状況になっても「自分で稼ぐ力」を持つことができなければ、この先日本で生きていくことは難しいかもしれません。
2020年は投資家が陥る様々な失敗を経験し成長できたことで、遠回りこそしたもののトリプルメソッドを使い確実に「自分で稼ぐ力」をつけ、2021年に入ってからきちんと利益を生むことができています。

「2020年収支結果」を見ていただけるとわかるのですが、面白いほど1年間の間で負けを経験し、本当に色々と学ぶことができました。
この記事では負けを通して気付いた点、特に反省すべき点をまとめています。

そして、見事に年が明けて2021年からは勝ち越しを続けることができています。
このように180°成績の逆転が起きた秘密に関しては、「私がトリプルメソッドで勝てるようになった理由」にて詳しく解説をしています。
トリプルメソッドの手法はとてもシンプルで誰でも簡単に実践できるのですが、私が1年間成績が振るわなかったのは、目の前に道があるのにもかかわらず遠回りしてしまったからです。
そこに気付いてからは劇的に成績が改善されました。

ただ、2020年のマイナス分もありまだ稼ぎ始めて間もないので、お金が充分にあるわけではないです。
しかし、投資元本に対して月に20%〜50%ぐらいであれば今後もコンスタントに収益を上げる力がついてきたと感じています。
また利益を生むことができるようになると、精神的にも楽になり心に余裕が出てきました。
手前味噌にはなってしまいますが、このブログの「自分のメシ代は自分の腕だけで稼ぐ」というタイトルは、こんな人間になりたいという思いを込めてつけたものであり、ひたすら1年間普通の人よりも遠回りして頑張ってきた結果、そうなれてきたと思います。

これからは相場の経験も蓄積されていくことで、より利益を求めることが可能になると考えていますが、重要なのは「お金があることと、お金を稼ぐ力があることの根本的な違い」を理解できてきたことです。

今後の激動の時代を生きていくためにこれからもトレードを続け、経済的にも精神的にもゆとりを得ていき何よりも、このブログを見てくださっているあなたにもお金を稼ぐ力を持つことの優位性を感じていただければ嬉しいです。

 

 

 

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